子狐丸ゆかり三条小鍛冶宗近旧跡・大石内蔵助必勝祈願の社

三条小鍛冶

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三条小鍛冶とお火焚き

本殿に向かって右側の赤い玉垣の中にあり、「稲荷塚」の石碑と元禄十二年(1699年)の銘のある石灯篭の基部が残っております。また、考古学上、弥生時代後期の円墳ではないかといわれ(この辺りは、中臣遺跡の北端になります)環濠の跡がかなりはっきりと残っております。達光宮の御祭神などと考え合わせますと、稲荷大神を勧請する前から鍛治(製鉄)の神として祭られていたようにも思われます。 一条天皇の頃(西暦1000年頃)、京の三条白川の辺りに住んでいた鍛冶師、小鍛冶六郎宗近は当社を崇敬すること厚く、常にも当社に参詣し大神様の御加護を願っておりました。そんな時、「名剣を打て」との勅命を承り、宗近は一世一代の仕事をしようと身を清め、一心に花山大神に祈願し、当社の埴土で「ふいご」を築き仕事を始めますと、どこからともなく三人の童子が現れて相槌を打って宗近を援けました。その相槌の技はとても子供のものとは思えぬ立派なもので、忽ち所望の名剣が出来上がりました。しかし三人の童子はいつの間にか何処へともなく姿を消しておりました。宗近はこれこそ花山稲荷大神の御加護と思い、剣に「小狐丸」と名付けました。この宗近の仕事場の跡は聖跡と崇められ稲荷塚と呼ばれるようになり、宗近の跡を慕って全国の鍛冶師は先を争って参詣したと伝えられております。先述の石碑や石灯籠のほかに、昔この場所に立っていた駒札から当社の稲荷塚が数ある稲荷塚の嚆矢であろうか思われます。当社十一月の火焚祭・お火焚神事はこの故事にちなむものであります。

花山稲荷神社のお火焚き その起源と背景

毎年11月になるとあちらこちらの神社で「おひたき」が行われますが、この火焚祭は「ふいご祭」ともいわれ、もともとは鍛冶師の祭りでした。すでに本来のいわれを忘れてしまっているところが多いのですが、当社は古くから金物と神様としても有名で、かつて三条小鍛冶宗近が、当地の埴土で「ふいご」を築き、花山大神の御神助により一世一代の名剣「小狐丸」を鍛えたといわれ、その後伝え聞いた諸国の鍛冶師たちは先を争って当社に参詣したと伝えられております。金属の製錬、加工に限らず手先の仕事をする人々の厚い信仰を集め、その跡地は稲荷塚の聖跡として崇められ、当神社の末社達光宮(たつこうのみや)の後ろには、稲荷塚の石碑と元禄12年銘のある灯篭の台座が現存しています。故に当社の火焚祭ではこの故事にちなんで古くから火焚串を「ふいご」の形に積んで焚かれるのです。
これら積み上げられる火焚串は全て崇敬者の人々から奉納されたものです。

本殿での祭典が終わり、神前の燈明より採火して火を移し、点火します。この火にあたることによって、一年間稲荷大神の御加護によって無事過ごせたことを感謝し、我が身の穢れや迷いを焼き祓い、我が身を反省し来たるべき年への出発の第一歩とするのです。 三条小鍛冶も一世一代の仕事をするために、我が身の穢れや迷いを火によって、焼き祓ったことでしょう。鍛冶師にとって、火は普段からよく使うものだったに 違いありませんが、その怖さ、力強さ、便利さ、あるいは霊的な力を見出していたかもしれません。三条小鍛冶は火をよく弁えた人だったと思います。物を造る ということは、ただ単に唯物的作業ではなく、そこに心をも込めるから素晴らしい作品が出来上がる。物つくり日本の原点です。
つくる人も使う人も「ものづくりの原点」を忘れてはいけない。 花山稲荷神社が火焚祭を毎年行うのは過去から未来へと「ものづくりの心」を伝えることが真の目的だからです。

さて、では何故農業の守護神を祀る処で火焚祭をするのでしょうか。遠い昔、稲作がわが国に伝えられたころ、稲荷の神様が直接「ふいご」を操ったとはまず考えられませんが、「ふいご」で作りだされた様々な鉄製農機具が稲作に不可欠な道具と考えられるようになってから、稲荷の神と「ふいご」の共存共栄が始まり、もともと金物の神の祭りであった火焚祭が2000年もの間、 最重要産業であった稲作の守護神として多大な敬意をはらわれてきた稲荷の神様の祭りとして後世に伝わったものと考えられます。


火焚串を積み上げる保存会


独特の形

またいつの頃からか火勢の盛りにお供えのみかんを投げ入れるようになりました。不老長寿の薬、火の神様の力、それらをうまく納得のいく形で体内に収めようとした昔の人の知恵でもあります。昔はミカンではなく、原種に近い橘の実をお供えしていたようです。橘は「常世の国の香具の木の実」といわれ、不老長寿の薬です。それがいつのころか、食しやすいミカンにとってかわり、なかでも温州みかんは甘くて大きいため、現在ではこれを主に使います。今では様々な果物がたくさんあって、栄養を補充するには事足りますが、昔は冬場はあまり果物などはなかったものと思われます。みかんは手ごろでとくにビタミンCを補うのに適していたことから、みかんを使うようになったと思われます。この火焚祭の神火に触れたみかんを食べると、年中風邪をひかないともいわれ、参詣者は競ってこれを拾って行かれます。年中風邪をひかないという秘密は、みかんに含まれる陳皮という成分による効能だといわれています。現代では、刀鍛冶の故事も薄らいできており、残念ながら焼きミカンのほうが有名になりつつあります。物つくり日本復興のために、もう一度故事を見直したいと神社では考えているところです。


おさがりの「おひたきさん」


みかんを投げ入れる


投げ入れられたみかん


競ってみかんを拾う参拝の人々

では次にこのお祭りに深く関係する神々を見てみましょう。花山稲荷のお祭りとはいえ、実は摂社の達光宮と深く関係しています。
末社とは、その神社の主祭神に関係のある神様を祀るお社のことを言います。

御祭神の市杵島比売大神は芸事、弁才、手先の技術の守護神、金山比古大神、金山比売大神は鉄鉱資源を神格化したもの、天目一筒大神は鍛冶師必須の「ふいご」を神格化したものと言われています。そして稲荷塚は古墳であります。この古墳の被埋葬者はおそらく製鉄の一族の長であり、達光宮の神々は、この長が崇めた神々ではなかろうかと、神社では推測しています。山科には「たたら」の遺跡が多くあることからも窺い知ることが出来ます。ならば、花山稲荷神社の創建よりも達光宮のほうが古いという可能性も出てきます。その通り達光宮のほうが古く、平安時代に流行りに流行った「稲荷信仰」の勢いにとってかわられたようです。霊力の強い神様に主役の座を譲るということはよくあったことらしく、当社も醍醐天皇の勅命によって稲荷の神様が祭られ、今日に至っています。 古くからの信者さんなどは、「花山さんに願掛けをすると、たつこさん(達光宮)が必ず手伝って、成就させて下さる」などとよくおっしゃいます。主役の座を譲っても、こっそりと力をお出しになるあたり、小鍛冶に出てくる童子(三条小鍛冶の相槌を打ったといわれる三人の童子)とその存在が重なります。

火焚祭の時期

火焚祭は一般に収穫が終わった秋と農業開始前の二月に行うことが多いです。この時期についての考察は宮司独自の研究成果ですが、興味深いので記しておきます。
農業の家の人は収穫が終わった後、何もせずに春を待つのではなく、副業として「鍛冶屋」を営む人が多くおられました。これは農機具を造るためでもあったでしょうし、器用であれば収入にも結び付いたことだと思います。秋の火焚祭は、火の神様を迎え入れる大事な儀式でした。また二月に火焚祭を行うのは、豊作を予祝する意味もあったでしょうし、火の神様にお帰りいただくこれまた重要な儀式でもあったと思われます。
当社の火焚祭は秋、11月に行われます。小鍛冶が邪念を払うために祈ったという故事、先述の稲荷の神様とふいごの神様の共存という条件、また収穫を感謝するといった農村の儀式、冬場の健康を保つための知恵などなど複雑な要素が入り組んで今日にいたっています。神道は多神教ですから、さまざまな現象が入り組んでいてもおかしくはないものですが、それほどに神社や神道というものは日本人の生活と密着していたということでしょう。

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