子狐丸ゆかり三条小鍛冶宗近旧跡・大石内蔵助必勝祈願の社

大石内蔵助

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花山稲荷と大石内蔵助のこと

当社にはご存じの通り、大石内蔵助に関する遺物がいくつかあります。直接関係するものが3つ、間接的に関係するものも含めると4つあります。4つ目のものは、古くから言い伝えにはありましたが、誰も見た事が無く、平成15年(花山稲荷神社御鎮座1100年の年)になって初めて明らかになったものです。

1つは内蔵助が断食をして沈思黙考したという断食石。これは当社背後の藪中にあったタタミ10畳ほどもあった巨岩で、幕末の「都名所図絵拾遺」に大きく描かれています。この岩は古くは当社の岩座(いわくら)だったのではと思われます。明治20年代琵琶湖疏水の開通により灌漑用水が行き渡ると当社付近も田が拓かれ、田中に巨岩があると耕作の邪魔になるので爆破したそうで、口碑が失われるのを惜しんだ当時の神主が、その最大級の破片を境内に移し据えたものと言われています。

断食石


大石内蔵助奉納鳥居

次に内蔵助寄進の鳥居。本殿の真後ろに立て掛けてあります。今回の調査では文字は見つかりませんでしたが、 片方の柱の上部の風化の具合から相当の年月の経過が見てとれる一方で、鳥居の足元にも根接をした跡があります。通常、木製鳥居といえば根元が腐ってしまえば撤去するものですが、根接をしてまで残そうとしたところから、この鳥居が他のものとは違う、まさに「只物ではない存在」ということを窺い知る事が出来ます。

3つ目は血判石。当社神前で敵討ちの同志の心底を試すためこの石の上で血判をさせたと言われています。

断食石

4つ目のものは、古くから言い伝えにはありましたが、誰も見た事が無く、平成15年になって初めて明らかになった棟札です(当社御鎮座1100年記念事業の一環として、本社鞘宮改修工事中に内陣に納められていた本殿天井裏から、元禄14年の文字と寄進した施主の名前・身分が書かれた棟札が発見されました)。元禄14年2月11日の日付と施主浅野長矩家臣進藤源四郎俊弐、続いて工事関係者の名前が読み取れました。

いずれの遺物も今回見つかった棟札から見て、時期的にまた進藤源四郎が大石内蔵助の夫人「りく」の姉婿で、内蔵助を山科に住まわせた人であることから内蔵助に関しての社伝が正しいことの有力な傍証になると思われます。 しかし本殿が納めてある内陣には立ち入ることはご法度であるため、現在では参詣者や研究者また神主すらも写真でしか見ることはできません。

大石内蔵助の3つの遺物の物語

題して 元禄忠臣蔵×段 花山稲荷社頭の場

花山稲荷神社宮司 中川正也謹作

元播州赤穂の城主浅野匠頭の家来、進藤源四郎は播州赤穂浅野家取り潰しと言う一大事に巻き込まれたが、思う所あって、本地の山城国山科郷へ帰り、大石内蔵助の意を受けて、陰ながら彼を助けようと裏方に回った。源四郎は、もし内蔵助が討ち入りに失敗したとき第2弾として控えていたという説があるらしいが、話が芝居懸かっていて赤穂藩の人材を考えてもありうべきことではないように思う。内蔵助が京でうかつに動き回ると敵方に仇打ち計画を見破られるだけでなく、命までも危うくなる。それで隠れ家を一軒借りて渋る内蔵助を住まわせた。草深い所は一向に苦にならないが、彼が渋るのは京で行動するには低いとはいえ東山 を一山越えねばならず、とかく不便であった。そんなある日、義兄の進藤源四郎から
「よき酒が手に入り申したゆえ一献傾けとう存ずる」
という使いが来た。討ち入りを催促する急進派の連中の対応も毎度同じ事の繰り返しで少々疎ましくもあり、たまにはこういう酒もよかろうと、早速源四郎宅へ 出かけて行った。内蔵助にとって妻の姉婿にあたる源四郎はやや苦手な存在ではあったが、少し堅苦しいだけで煙たがるほどの事はない。隠れ家を出て百歩も歩 けば義兄の家である。特に近道をして庭から入り縁側から
「お招きにより内蔵助参上つかまつりました。」
と一声かけた。他人行儀は口先だけで義兄の気安さ、どっかりと縁先に腰を降ろすと、すぐに張り替えたばかりの障子が開いて、
「やあやあ早速の御入来かたじけない。伏見の酒が参りましたゆえ、たまには当家の酒もよろしかろう存じまして。ささこれへ。」
と、客間へ通されいきなり酒となった。源四郎がかなり年上であるのに内蔵助に対して言葉つきが丁寧なのは赤穂での身分の違いから来ている。当家の酒といわれると茶屋酒の飲み過ぎを咎められているような気もするが、源四郎は嫌みを言うような人ではない。酒はさすがに伏見のもの、茶屋酒とはまた違う味わいがある。つい内蔵助は敵討のことなど忘れて忙中閑ありとはこのことだ。義兄の気配りをしみじみと有り難く思った。
突然、源四郎が現実的なことを言い出した。
「ときに太夫殿、お一人で暮らさるるは誠にご不便かと存じ、小女を見つけて参りましたゆえ、明日にでも来させようと存じまする。いかがでござる」
これだから真面目人間は困ったものだと思いつつも、実際身の回りに不便を感じ始めていたので
「お心遣いかたじけない。よしなに。」
と簡単に承知した。これで話が終わりかと思いきや、いつもとは打って変わって源四郎は機嫌よく世間話を始めた。もともと酒の強い人ではないので既にまわり始めたのかもしれない。内蔵助は聞き役に回った。
「ときに太夫殿。拙者今年の如月のころ、西山稲荷の社殿を新しく造らせ寄進申しましてな。小さいながらなかなかの出来栄えにて、前にもまして参詣人が絶え間無く、賑わい居りますれば、一度ご参詣さるればいかがでござりまする。心願成就間違いなしとの評判でござる。鳥居の一つも寄進さるれば願いはすぐにかな い申す。」
と呑気な事を言う。
西山稲荷とは今の花山稲荷の昔の呼び名で、内蔵助が京へ来てから行く先々で評判を聞いて名前だけは知っていた。内蔵助は源四郎の話を聞きながら、一人酒を飲んでいしたたかに酔った。他にも源四郎が何かいろいろ言っていたような気がしたが、定かでない。
翌朝、内蔵助は隠れ家で目を覚ました。源四郎宅からどうやって帰って来たのかわからない。向う脛に擦り傷があった。日はかなり高く午の刻に近い。間もなく 昨日の話の小女が源四郎の家の下女に連れられてやって来た。京の町育ちと言う。
「かると申します。よろしゅうお頼申します。」
とか細い声で言った。おれの身の回りの世話が出来るのかいなと思うほど細い。内蔵助は一見無精者の様に見えるが、きれい好きであった。まただ、生まれが生まれだけに自分で細かく身の回りの雑用を全部片付ける習慣がない。小女でもいれば、と思っていたところであったから、丁度よかった。どっちみちこの家にいるのも、そう長くはないだろうから、細くても何でもいいだろう。早速留守番をさせて今日は一つ西山(花山)稲荷へ参ってみよう。思い立ったが吉日と言うではないか。と独り言を言いながら、袴を着け羽織を着、大小を差してぶらりと家を出た。雑木林の続きにこんもりとした森が見える。見えていて、二日酔いの足にはかなりの道程である。社の少し手前に来ると見るからに大きな岩があった。おあつらえ向きの腰掛とばかりに腰を降ろした。いつも気になるのは討ち入りの事である。時期をいつにするか、討ち入りを急ぐ者とじっくり型の者との折り合いもある。今は昼行燈と揶揄されてはいるものの、考え出すとさすがは城代家老を務めた人である。ついついあれもこれもと思いを巡らすうちに時間を過ごしてしまった。後ろから来た参詣人達が内蔵助の前を恐る恐る除けて通る。みんな西 山(花山)稲荷へ詣でる人達である。この人達が後に赤穂浪士の吉良邸討ち入りを知って、
「あの岩に腰掛けて黙想してた人が大石内蔵助はんやったんか。断食までしてなぁ。えらいもんや」のちに西山稲荷を大石稲荷とも言うようになったのはこんな経緯からである。

急な坂を登ってやっと社頭へたどり着いた。聞きしにまさる社頭の賑わいに圧倒されながら社前へ進み、義兄上が寄進された社殿はこれか。小さいながらも品の良い社だと感心して眺めてから、敵討の成功をはじめ、お家再興、同志の無事、さらには離別して但馬にいる妻子のこと等々、こんなにいろいろ頼んで良いもの だろうか、元城代家老にしては俗っぽ過ぎると苦笑いしながら社頭を離れた。
考えてみれば今日は朝から何も食べていない。急に空腹を感じて人だかりしている参道脇の茶店に入り、最近ここの名物になった「よもぎ団子」を食べてみる気 になった。普段は胸やけするので見向きもしなかったのに、二皿も食べた。食べつつ昨夜の源四郎が勧めていた鳥居寄進の話を思い出した。願いが叶えば寄進するのが筋らしいが、江戸へ下る前に刺客に切られるか、討ち入れば上杉の付け人に斬られるか、成功してもお上に自首して出るつもりだから、命の保証はないだろう。いろいろ考えた末、そうそう 今日は吉日であった。討ち入りがうまくいくものとして、先に鳥居寄進の申し込みをしよう。場所は西の坂の入り口から3番目が空いていたからそこが良かろう。今日は賽銭程度しか金の持ち合わせがないが、義兄の名さえ言えば後で届けさせればよい。そこまで考えてともかく受付へ出かけて行った。そこには人によさそうな上品な神主が控えていて、源四郎の名前を告げると
「そのような所では目立ち申しませぬ。表参道に空きがござりますれば、そちらにお建て申しましょうか。お名前は?日付は今日付けになさりまするか。」
いろいろ、親切に聞いてくれるが、
「いやいや、名などは要り申さぬ。御祭神がご存知の事ゆえ。但州何某とでもして下され。早々に5両届けさせますゆえ。」
ともかく内蔵助は堂々と名前を出すのをためらった。鳥居を派手な場所に建て、名前を本名のまま書いてもらって、内蔵助もとうとう敵討を諦めて辺鄙な山科に 引っ込んだと吉良方に思わせるのも良いかもしれぬが、簡単にその手に乗る相手ではなさそうである。思わぬ長居をした内蔵助は帰り際に再び社頭に立ち、深々 と頭を垂れた。頭を上げたとき、社頭に上部が平たくなった石を見つけた。その時はこんな所に石があるな、程度にしか思わなかったが、帰る道中
「どうも近頃、討ち入り仲間が一人減り二人減りして、連絡のいとれないものさえ出始めた。急進派の者でも初めの覚悟を持ち続けているかどうか・・・。
他人を疑うのはよくないが、どうも心許無い。もう一度彼らの意思を確かめておこう。」
と考え、帰宅すると源四郎に頼んで、大急ぎで今日の小野寺十内へ、3日後の申の刻に同志の者は残らず西山(花山)稲荷へ来るように使いを出してもらった。
3日後、刻玄より少し遅れて再び西山(花山)稲荷へ出掛けた。社頭のあちこちや茶店の前に三々五々目立たぬようにたむろしていた。集めてみると7人いた。 肝心の十内は風邪をこじらせたとかで来ていなかったが、この人は間違いないだろう。皆で社頭へ進み参拝した後、内蔵助が先日目星を付けておいた例の石を囲むようにして立った。内蔵助は小さいがきっぱりと
「各々方の心を疑うのはまことに心苦しいが、最近連絡の取れぬものが出始めた。この西山(花山)稲荷の御神前にて、もう一度各々方の心を聞きたい。そのた めにこの石の上にて、これの紙に連署、血判を押されたい。」
まるで町奉行が罪人に申し渡しをするように言った。同志は皆一様に、今更言うまでもない。また血判かとむっとした顔もあったが、齢の順に署名し小柄を抜い て小指を切り血判した。かなりの時間社頭の石を囲んで何やらしているのを怪しんだ神主が出てきたので、これ幸いと血判状を神前に供えるよう頼んだ。神主は この前の鳥居の一件で顔見知りであったので何も言わず、血判状を静々と本殿へ持って行った。

鳥居を奉納した武士の名はしばらくは不明であったが、源四郎の家人から漏れて内蔵助であることが判った。赤穂浪士が討ち入りに成功すると、累の及ぶのを恐 れた神主はこの血判状を神前から下げて密かに燃やしてしまった。血判石と鳥居はそのまま境内に残り、のちに断食石(の一部)も移し据え、花山稲荷の境内に現存する。

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